この記事を読まれている皆さんは、恐らく小学生や中学生、高校生のお子様のご両親だと思います。皆さんは学校の現状をどの程度理解され、また、昔との違いや変化を知っていらっしゃいますか? 特に小学生や中学生では「ゆとり教育」が失敗に終わり学力重視へと大きくその舵取りを変えましたが、私にはその弊害もあるように思います。また、新潟県の高校の進学校では子供たちが相当勉強をさせられている印象があります。 私には子供たちに勉強の自主性を持たせるためには宿題は少し減らしてもいいように思います。
私の年代(平成28年で52歳です。)の学校と何やら異質な雰囲気を家庭教師をしている生徒たちの話からから感じますし、私たち家庭教師が教えると「ちゃんと分かるのに学校は何をしているのだ?」と思う経験は、 多くの家庭教師たちから聞く言葉です。私たち家庭教師は学校の授業そのものを受ける事は出来ません。また、私にも小学校に通う娘がおりますが、授業参観だけではその実態は見えて来ません。
ただ、家庭教師のお世話をしていて子供たちから聞く学校の勉強の変化は分かる所がありますので、今回は少しその事に触れ、学校の問題と教育について考えてみようと思います。 この記事を読まれる皆さんも、もし、思い当たる所があれば、お子さんに学校の勉強の様子を聞いてみて確認してみて欲しいと思います。 (学校の先生方がご覧になったら異論もあると思いますが、このお話は子供たちに勉強を教えている家庭教師の側から感じる事とご理解下さい。)
「学校は全てを教えない?」
私たち家庭教師が子供たちに勉強を教えていておかしいな?と感じる事が頻繁にあります。数学に苦手意識の強い子供はとても多くいますが、先日は「移項」の原理のお話をする必要があって説明をしました。 中1で学校で習う移項の原理は解ればとても簡単な理屈で、これが理解出来れば方程式の計算は間違う理由がうっかり以外無くなります。勿論、そんなに難しい理屈ではないので子供は理解するのですが、 学校では「分からなかった。」と言います。移項はその先大学までつながる数学の勉強の基礎の基礎ですからこれが分からないと本当に数学が嫌になります。
「右から左へ移項すると符号が逆になる。」って教わった記憶を皆さんも覚えていると思いますが「何故そうなるのか?」の理屈を知らない子供がたくさんいて、数学の面白さに気づけず苦手意識を持つ子供が増えてます。 学校では教えているはずなのですが、子供の脳裏に印象が残っていない。「知らなかった。」と言うのですね。とても大切な事なのに印象に残るように教えていないように思うのです。
かと思えば学力重視への取り組みからか算数ドリルを同じ場所を10回宿題にしている小学校があったりしますが、子供たちは「理解するよりこなすこと」に追われてしまうはずで、それは違うだろう。 と思うような状況で勉強に追われ子供らしく活き活きとした学校生活はあるのだろうか?と感じる学校もあります。
また、社会の地理の弱い子供(弱くない子供もそうですが)に「白地図に地名を書き込むといい。学校では習わなかった?」と聞くと「うん。」と頷きます。英語の音読も昔は順番にしたものですが、 子供たちは「CDテープを聞くだけ。」と答えます。国語は全ての教科の要の教科と私は認識していますが、英語や数学の先生に国語の先生が遠慮して課題を減らしている。と言った話を聞いた事もありました。私たち家庭教師には「どうしてなんだ?」と思う経験がたくさんあります。
ちなみに私は新潟県(新潟市の西区、新潟大学のすぐ近くに住んでいます。)の出身なので「上杉謙信」が大好きで尊敬しています。上杉謙信って名前は知っていてもどんな偉大な戦国大名なのか知らない子供たちばかりなので、 その事を話すと、子供たちは新潟県民の誇りを感じてくれるようですし、立派な大人が世の中にいた事を理解してくれて、自分をどう育てるべきかを考える材料を感じてくれるようです。 「なぜ新潟県の社会科の先生は話してあげないのだろう?」と私は新潟の子供たちに上杉謙信の話をしながらいつも感じています。
私は『「教育」とは「知識」を広げる事と同時に、「子育て」の一環なんですよ。』といつも家庭教師のお話でお伺いするご家庭へお伝えしていますが、この「子育て」の部分の人間的な成長のためのお話や、 子供たちが興味を持って学ぼうとする姿勢を作り出そうとしている先生が少ないように感じています。
家庭教師の仕事を長くして来て、学校の勉強に『?』を感じる事がその他にもいくつもあるのですが、やはり学校では「教育」の何かが足りなく、そして全てを教えていないし、教えられない。と考えるしかないのだと思うのです。
「プリント中心の学習。教科書は開かない?」
ご両親や子供たちに勉強に関してお話をしていて、「そんなはずは。。。」と思う経験はいくつもありますが、教科書をほとんど開かずプリントから入る先生がいるのだ。と思う事も良くあります。 「本当なのか?」と思うのですが、家庭教師の仕事をしながら接する中で何人もそう言う返事をする子供たちに会うと「どうもそういう先生が増えているのだ。」と言う印象です。 「教科書」は「参考書や学習書」とは呼ばないので「教えるため」にあります。
こうした先生の指導のお話を子供たちから聞くと「昔とは全く違う教師がいるのだ。」とも思いますし、教科書を開い て勉強する子供に出会う事が少ない事にも納得が行きます。 しかし、知識は教科書にあり整理され理解を助けるように作られているのですからこれは大きな問題です。私には、そうした先生たちは、小学校や中学高校時代に、もしかしたら「通信添削」や「塾のテキストを使った解き込みの勉強」 など問題集をこなす勉強を中心に教科書をあまり開かずに来た経験しかないのかもしれない。そうした経験から教科書を軽く扱っているのかもしれない。と思うのです。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか? 家庭教師のご紹介のためにお伺いし接する子供たちからは今の学校の勉強に疑問があるのは確かです。
「勉強は何故すべきか?先生は語れない?」
私は、家庭教師のご相談があってご両親や子供たちにお会いして「勉強をする意味」について話します。嬉しい事に勉強へ「前向きな意欲」を多くの子供たちが出してくれます。 皆さんは「何のために勉強する。」とお考えですか? また、勉強する意味を子供たちに明確に分かるようにお話することが出来ますでしようか? 私の経験からは「勉強は大切な事で、将来のためにも必要」 と言うニュアンスは皆さんがお持ちですが、それは子供たちも実は大概分かっていますし、感じています。
ただ英語や数学、国語などを勉強する事や、それを通じて身に付ける事の出来る「学力」 が、子供たちの人生でどのように活かせる力であるかまで、子供たちに分かるように話せるご両親にお会いした事はありません。(日本全体では必ずいらっしゃると思いますが。)相当の学歴をお持ちのご両親や、 教育にとても関心の高いご両親でもそうでしたので、教育以外の仕事に付かれ、日々ご家族のために学校教育とは無関係の環境で生きておられる普通の家庭のご両親が、子供たちに「勉強の意味」 を子供たちに明確に理解出来るよう話す事が出来ないのは当然だと思います。
ですが、学校の先生は毎日教育の仕事をしています。学校の先生方が私の話すような「学ぶ事の意味」を子供たちが聞いた。と答えてくれた経験はほとんどありません。恐らく「勉強は大切だぞ。」 とは当然話してくれるのでしようが「子供たちが納得し、勉強に意欲を見い出す。」ような話が出来る先生は少ないのだと思います。
私は、学校の先生こそ「語るべき」と思うのですが、非常に失礼な物言いですが、私が思うに学校の先生方には民間で生き経験が無く、そのため結果を作り勝ち取るために必死に学び、失敗しても何度も乗り越えて結果に変えて来たというような 「現実社会で活きる学びの経験」がないからなのだろうと思いますから、今の制度では仕方の無い事とも思います。 実社会で生きた人の経験を取り入れるべく校長先生を民間人にするなどの取り組みは確かにありますが、私には、子供に身近に接する教師として、もっと学校以外の社会で活きて、学ぶ事の意味を経験し語る事の出来る立派な大人が勉強に対し 「しっかり勉強する」事を話す機会が作られる事があれば、子供たちは自然に育つように思います。
「日本の教育はどこで間違った?」
歴史をひも解けば、江戸時代には各藩が「藩校」を持っていました。藩校では学問の他に武士としての精神を学ぶ事で、子供は自分がどんな大人になるべきかを考える事が出来ました。また、庶民は「寺小屋」 で義務教育のように制度化されていないのに学び、江戸時代の日本の庶民の教養は世界でも非常に高かったそうですし、それが、西洋人が驚くような文化的な生活を江戸に作っていました。
そして明治時代になると、今度は天皇陛下の基で帝国となり、西洋と対等に向き合うためにも義務教育の制度は整備され、今の一般の日本人の見識から見れば、帝国主義と言う確かに危険な精神の基ですが、 ですが立派な大人へのイメージは子供たちには容易だったと思われます。そして、昭和の敗戦を経験します。この時、日本人は信じていた日本人としての誇りとアイデンティティを失います。
一体、現代の大人たちが、どれだけ日本人としての誇りを持って暮らしているのでしょう。現代の大人は、あの敗戦に対して「間違った事をした。」と学校で教わり成長しました。確かに戦争は二度としてはならない事です。 ですが、私たちの先輩たちは、私たちが日本人としての誇りやアイデンティティを失わせるような人たちだったのでしょうか?
今の大変な現代を生き子供を養い家族を守っている皆さんは立派な方ばかりです。「立派なのに日本人として子供たちに誇らしく語れない。」そう言う教育を受けて来ました。ここに、子供たちが「学びの意味」や 「立派になりたい。」と成長の方向性を見つけられず、むしろ、ニュースなどでは「悪い大人」の話ばかり聞知るばかりで、大事な事を真剣に分かり易く語る大人が育たなくなっている悪循環を感じています。
「学校教育の問題と教育の考察をしての結論」
「子供たちの学力について考察」のページでは、「学力」について私なりの見解をお話しましたが、今回は、その「学力」を受け渡す側の「学校教育」を考え「大人として教育をどう考えるのか」について考えを話して来ました。 『大人の背中を見て子供は育ちます。』ですから、一番子供たちの教育に身近な学校の先生には、もっともっと勉強して欲しいです。(とても大変な事は十分理解してますが。)そして、子供たちを見守大人たちも、 もっともっと教育に関心を持って欲しいです。
そうした大人たちが増えるなら、子供たちの学びは必ず変わると思います。学びへの姿勢が変わるなら子供たちの人生も大きく変わります。 私の知り得る『学力』とは、未来を作り出す事の出来る力です。ですから、これを読まれた皆さんには、ぜひ、「教育」「学力」「学ぶ意味」について考えて欲しいと思っています。 この先の未来に、私たちがいなくなってからも、私たちの子孫たちが、幸せに暮らし、充実した人生を過ごして行くためにも、「教育」はとても大きな力を持ちます。ぜひ、身近な方々とお話をしてみて下さい。 子供たちの未来へ役立つともし思うのであれば、ぜひ、この家庭教師のアズの新潟代表の渡辺の記事を読んで下さるようご紹介して下さればと思います。
結論としてまとめるなら、『大人こそ学び、子供たちにその背中を見せ、学びの意味を語ること。』そうした大人が作り出す「学校教育であり社会教育」こそ今の日本の子供たちに必要に思います。
最後に
昨年、私の友人の子供が学校で「いじめ」に会いました。今は「いじめ」はないそうなのでこの家庭教師の仕事の中でお話するのは少し考えましたが、その友人から相談される中で、学校の対応や問題のある行動をしていた子供たちの両親にも大人として非常に残念に感じた思いがあるため、友人に了解を得てお話します。 友人の子供が「いじめ」に会った事を相談され、当然、そうした未熟な行為は大人が諭しやめるようにする事が、教師を含め子供の親の仕事であると考えがありました。
ですが、経緯としましては、明らかに友人の子供だけ毎日泣いて帰宅し、 口には言えないような残念な行為を友人夫婦は見ていますが、相手の両親は「子供にはよくあること」と認識し学校もまた、友人が「いじめ」だと伝えたのにも係わらず、 その両親には「いじめ」だと伝えた友人の話をそのまま伝えてくれなかったそうで、結果として、その後もしばらく不適切な行動を「いじめ」た側は行っていたと言うことでした。
友人は、直接相手の両親へ電話し、「学校の先生へ学校であったことを聞いて欲しい。」と伝えましたが、学校では「女の子によくあること」とその両親には伝えたようでしたから、話にならず、学校へ友人は出向き、 状況を全て文書で事実確認が取れるよう整理して渡し、漸く、相手の両親と話し合いを持つ事を学校側に行動してもらう所まで行きました。
友人は、学校への文書に、「子供たちが少ない中、これからもみんなが仲良く良い関係を築いて行ってくれるように望む。」こと、またその為に、この両親と話し合う必要性のある事を提案したのですが、学校側は友人に会って「謝る」よう相手の両親へ伝えたため、 結果として相手の両親は話し合いの場に出て来ず、わだかまりを解消する機会を失ったまま現在に至っているそうです。
その「いじめ」た側の2人はいつも一緒で遊んでいるそうですが、新潟市内の友人の家の近所には女の子が少ない中、友人の娘とその子供たちは、現在も互いの家を行き来して遊ぶ事が出来なくなったそうです。 学校ではもう仲良く過ごしているのに、学校を出てから遊びの行き来きができないのです。少しでも子供のためを考えて、先生が、話し合いの意味を正しく受け取ってくれて、そのご両親と友人夫婦の話し合いの架け橋になろうと考えてくれたらと残念でなりません。
友人には体育館に掲げられている「許すなイジメ」の文字を虚しく思いつつ学校と話し合った事が思い出されるそうです。 このお話に関しては、読まれた方々に様々な意見があるだろうと思います。私には、学校の先生が、大人としての経験値もっとあれば、何か今違う子供たちの姿があるように思えてならないのです。
友人に断った上でこのお話するのは、新潟で家庭教師の仕事を長い年月続けて来た中で子供たちから知り得た学校の先生の現状を考えるにつれて、その「いじめ」をした側の両親にも違和感を感じましたが、 学校の先生方の教育力にもとても違和感を感じ、また、その理由を考えるほど、先生方が、学校と言う狭い社会で、ましてや大学を出てすぐに教員となり、子供たちからは「先生」と呼ばれる事で、 教壇に立ち「人生の先輩」として子供たちに語れるだけの民間の苦労を経験していな事が問題の根底にありそうで、この私の経験からその事をお話がしたいと思ったからです。
今、社会で大きな問題になっている「いじめ」の問題も、身近な大人たちが「学ぶ意味」を語れず「何のために学ぶのか」を感じる事が出来なかったり、立派に生きる事を日本人の誇りやアイデンティティを感じさせてあげられない大人たちこそに原因があるのかもしれません。いえ、私はそう思います。 そう言う思いからこの話をしなくてはならないと考え、友人や友人の子供には申し訳ない。と思いながらも、友人へ了解を得てお話をしてきた次第です。
とは言え制度として国が定めている以上、先生を変えるなど私たちが1人では何も出来ないのが現状です。勿論、先生だけが変わった所で身近な大人が変わらねば、恐らく子供たちへの教育は変わらないはずです。 勿論、家庭教師をお世話する私の課題ではありますが、皆さん1人1人が子供たちのために「教育」を真剣に考えるようになって「学校」「家族」「地域」「社会」の大人たち全てが「子供たちの教育」 へ「学校」に任せ切りにならず真剣に取り組む未来が来て欲しいと願いつつ、家庭教師の協会を運営しながら新潟県の子供たち、そして全国の子供たちが大人たちを信頼し、身近な手本にして「新潟市」」や「新潟県」暮らすことの誇りや、広くは「日本人」である事の誇りを感じ、自信を持って育つ事の出来るような教育の環境がいつかしっかり育まれる事を願って家庭教師を通じて子供たちの未来を育てる手助けをして行きたいと考えています。
この記事を読まれる皆さんも、もし、学校の「教育」に疑問を感じられているようでしたら、ぜひ、どのような大人たちが増えて、どんな社会を築いて行くことが子供たちの未来へ必要で、そのために学校ではどんな勉強が必要なのかを考え、 意見を持たれる事で、官僚や公務員さんたちの作り出す「教育」から新潟の地域の人たちや日本人全体が作り出す「教育」になって行く事は、とても気の遠いような、 たどり着くのも容易ではないお話ですが、私には理想であり近づかなくてはならない事なのだと思います。