みなさんも一度は聞いた事がある言葉ですね。そう、慶応義塾を作り、一万円札でお馴染みの福沢諭吉!と多くの方がお答えになると思います。ところが実はこの言葉、福沢諭吉が『学問のすすめ』の冒頭でアメリカ合衆国の独立宣言の中で言われている事を引用した一文なのです。
福沢諭吉はその後に「といえり、されば…」という文を続けています。「といえり」とは「言われている」、「されば」とは「それは」の意味です。福沢諭吉はこの後に何を伝えたかったのでしょう。
では、『学問のすすめ』から文章を抜粋し福沢諭吉の言葉を紐解いていってみましょう。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり、されば、天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給う趣意なり。
されども今広くこの人間界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もあり、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。実語教に、人は学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。
~中略~
学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附きは繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。
~以下省略~
福沢諭吉「学問のすすめ」より
人は皆産まれた時は平等なはずなのに、頭の良い人悪い人がいたり、貧富の差などがついているのは何故なのか。それは、学んだか学ばなかったかによって出来るのです。学べば自分や社会を知る事になり、自由を誤解し我侭になる人が多い中で、社会や人との正しい付き合いができる本当の自由を得る事ができると伝えたかったのです。
学ぶ事で様々な差が生まれ、学べば本当の自由が得られる。だからこその<学問のすすめ>だった訳ですね。やっぱり、福沢諭吉先生は偉い人だったんですね。 『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という言葉のみにとらわれていた方が多かったのではないないでしょうか。みなさんも、「学問のすすめ」を読んで、ちょっぴり刺激を受けてみてはいかがでしょう?